創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

④ あまりシャチホコばらずに

 この「マインドフルネス」の連載。さしあたって有名な(?)瞑想法であるから、迂闊なことは言えない、と慎重に話すつもりだったが、それではあまりに型にハマろうと自分に強いて不自由だ。
 お寺の住職から戴いたブッダダーサ著の「呼吸によるマインドフルネス」の100枚近いコピーを元に、あくまでも「私のマインドフルネス」、私の実体験・解釈で、話を進めていきたいと思う。

 さて、ダンマの話に戻る。
 このブッダダーサによるマインドフルネスは、いくらパーリ仏典のアーナーパーナサティスッタに着目しているとはいえ、どうも自己啓発的な要素が強いと思われる。要するに、「こういうことをしたら、良いコトがありますよ」。
 べつに、良いことを期待して瞑想するわけではないと思うのだが。ただ淡々と、頑張るでもなく休むでもなく、1日10分の瞑想を続けることが肝要だと思う。
 ただ、その最終到達点がニルヴァーナ(涅槃)であり、そのためにはダンマを理解することが大切ですよ、とブッダダーサは言っている。

 ということで、もう一度、身体、感受、心、法、というものを見てみます。
 私は介護の仕事をしていたので、ご飯時の方は申し訳ないですが、便の処理もしました。その際、まず便というものが眼に見え、それに伴う臭いもします。
 これは、眼と鼻が「感受」し、その作用としてイヤな気持ち、つまり心が生まれる、ということです。しかし、法(ダンマ)とは、自然すなわち自ずからそこにあって、それ自体として厳然と存在する、「ものそのもの」であるということです。

 私はストマー(人工肛門)を初めて見た時、ほんとうにショックでした。このショックを受けた自分をどうしようかと、手こずりました。心の置き場所を探した時に、「ああ、これは物そのものなんだ」と思いました。
 その物を眼がとらえ、鼻が嗅ぎ、その作用としてショックを受け、ビビる心が生まれた、ということでした。
 こうした道程を辿った自分を、自分の内に観察することで、私は冷静になれたと思います。

 職場で色々、教わることも多かったけれど、自分はチャンと覚えられるのか不安で、心臓ドキドキ、少々パニックになっていました。しかしまぁあぐらをかいて、10分ほど瞑想すると心が落ち着き、昨日メモったことを清書し直し、ドキドキも治まったという具合です。
 この呼吸を意識する瞑想は、身体→ 感受→ 心→ 法、というものに、それこそ自然に通じていくように思います。
 次回は、その瞑想法の仕方を、具体的に話したいと思います。

⑤ 生かされているということ

 正直なところ、なかなか筆(キーボード)が進まない。何故だろう? 書きたい事柄ではあるのだが…。
 テキストに多少の反感があるのかもしれぬ。ちょっと宗教的だと思える箇所もあるからだ。また、ここで私は「説明文」のように書いているので、妙な責任めいたものも感じている。
 マインドフルネスは「呼吸する身体」をみつめる瞑想だが、どうしたところで精神的なものの比重も大きいと思われる。その精神とは、ひとりひとり異なったものであるし、それを一筋の道のように十把一絡げに舗装したくない気持ちもある。ひとりひとりがイイと思ったことをやるのがイイわけで、何もこの瞑想が絶対的なものではないのだ。

 私はブッダを、ソクラテスと同等に見ている。ただ、かれらが好きなだけなのだ。そのブッダがやっていた瞑想法であるというだけで、マインドフルネスをやっている。何も、人のためにやっているわけではない。
 だが、ここに書くという時、どうしても「人のお役に立てるのでは?」という期待が自分自身にあったのだった。私が文を書くのは自分が愉しみたいためであって、人のためではない。これを読んだ人が、多少でも気持ちが楽になった、そんな結果になれば私も心から嬉しいだけで、ほかに何の他意もない。

「人」への意識…「人のために」が自分の中で少し大きかった気がする。これでは、自分が座せない。それで筆が進まないことに思い当たる。今までの自分の生き方のようだ…
 です・ます調も、どうもしっくり来ない。手紙ならいいけれど、ネットは不特定の人に向かうわけで、雲に向けて手紙を認めている気分になる。書く作業はそういうものかもしれないけれど、私と雲の間にマインドフルネスを媒介させることで、雲の層がいっそう厚くなっている。

 どうしたらよかんべかな、と思いつつ、こりずに続けてみよう── 書きたいから書こう。読みたい方は、読んで下さい。
 続き、やります。

 今までも、実感としては親や周囲の人、忘れがちなところで植物や陽、雨、ひろく言えば地球、宇宙によって生かされてきたわけですが、まず自分の身体に生かされている、ということを、マインドフルネスでは最も重要視します。
 自分がいなくても世界はあるでしょうが、自分の世界はありません。自分が生まれたということは、紛れもなく特別なことです。
 そしてこの身体は、生まれた時からずっと呼吸をしているということです。この「呼吸」を大事にすることは、自分の生命を大事にするということです。そのツールとして呼吸による瞑想がある、ということです。

 まず、楽な体勢で椅子に座ります。姿勢はなるべく真っ直ぐに。正しい姿勢は、呼吸を助けます。手は、どこに置いても構いません。自分が楽だと感じるところで。
 キッチンタイマースマホの目覚まし機能を使って、10分後アラームが鳴るようにセットします。眼は、上唇と鼻腔の間、鼻先を見つめます。鼻から息が出入するので、鼻先を「プールの監視員」、見張り番のようにするわけです。途中で眼を閉じても構いません。

 あとはただ、鼻から呼吸が入り、お腹、おへそに行くのを見つめます(へそまで実際には空気は行きませんが、そうイメージします)。呼吸を見守る、呼吸のあとを追う、というふうに、ゆっくり呼吸を見つめて下さい。
 おへそまで息が入ったら、今度はおへそからお腹、鼻へと出て行く息を見つめます。また鼻から息が入って、お腹、おへそ… 見つめます。これをゆっくり繰り返して下さい。電車の中、バスの中でもOKです。
 いろんな雑念、想念が頭に浮かんできて、呼吸の道筋をたどることだけに集中するのは難しいですが、自分がどのように呼吸をしているのか、それだけを見つめるようにして下さい。
 10分経ったら終了です。

⑥ 発端

 まず歴史上の人物、人間としてゴータマ・ブッダがいた。この実在が、私にはとても興味深い。2500年の時間を経ても、その言葉が残っていることもありがたい。弟子たちによって神聖化され、口から虹色の息を吐いたとか、空を飛んだとか、産まれてすぐ立ったとか、それはやりすぎだと思うけれど、そういう弟子たちのおかげで言葉も残っているわけだ。

「この世の怨みは、怨みをもって鎮まることはない。これは永遠の真理である」とか、「水には形がない。丸い器、四角い器などに入れることによって形を為す。人間は各々、自分自身をよい器と為すことができる」ようなことも言っていたし、何といっても「自分自身以外に、誰を頼ることができる?」といった感じのスタンスが、私のお気に入りなのだ。

「1つの考えに固執してはならない」とも言っている。
 筏(いかだ)の話として、川を渡る際、筏を作って川を渡った。その人は、「この筏は大変役に立った、ありがたく思って背負って行こう」と考えた。一見、善い心掛けだが、ブッダはこれを否定する。「その時、役に立ったのだ。それでいいではないか。重荷にすることはない。そこに置いて行きなはれ」と。

 私はブッダを哲学者のように思っているのだが(ニーチェは衛生学者と云っている)、インド哲学ギリシャと違い、宗教の形であったと考えている。まったく、インドにも懐疑主義、厭世主義、絶対主義、唯物論、様々な考え方、ものの捉え方があった。
 他の信徒がブッダの弟子になりたいと言った時、ゴータマさんは寛容だった。「いや、よく考えなはれ。今まで、あの人の教えのモトにいて世話になったんやから、簡単に投げ打ってはいかんぞえ。よく考えて、それでも私がいいんなら、そうしなはれ」みたいなことを言い、いわゆる勧誘をして信者を増やそうみたいな考えはなかった。

 何としても、ゴータマさんには自信があったのだ。
「私はただ真理を説いただけで、指導者ではない。私を頼りにするな。真実は、いつも1つなんだから。ずっと私は、それを話してきたではないか」
 そんな言葉もハッキリ言っている。
 そして経典には、ゴータマさんが「私は瞑想によって完全な悟りを得た」と明言した言葉も残っているという。その仔細なやり方も書かれているので、1900年代にタイのお坊さんが着目し、「呼吸による瞑想法」として本を著した。
 で、今年、奈良の近所のお坊さんも、「いろいろ本を読んだが、これが一番具体的で分かり易い」ということでこれをテキストにし、ご本人も「自分のために」マインドフルネス講座を無料で始めたというわけだった。