「笑って死ねたら最高なんですけどね。それを目指して生きてるようなもんです」
「ああ、行き着くところは、そこですかね、やっぱり。そのためには、日頃から笑っていないと、なかなか…。うちに来たお客さんでね、そのお母様が、亡くなる時に『ああ、楽しい人生だった! ありがとう!』とご家族の方に言って、亡くなったってお話、聞いて…」
「あ、すごいですね」
「すごいですよね」
そんな話を、先日行った整体師と。
親しかった年長の友達は、二十年位前、「お別れだね」と家族に言って、そのまま意識をなくし、旅立ってしまった。
「大滝(詠一)さんもそうだったね」家人が言う。
「ああ、そうだったね、『ママ、ありがとう!』って、奥さんに言って死んじゃったんだっけ…。何か、死ぬ瞬間というか、生命の灯が消える時って、わかるのかな」
「生き方によるんじゃないかな」
何となく、まわりの人たちに、感謝の心のようなものをいつも持っている人は、さいごに笑って、ありがとう、と言えて、旅立てるような気がする。苦しい時は、笑えないかもしれないが…。
小学生のとき、家で飼っていたモルモットも、亡くなる直前、カゴの奥からのそのそ出てきて、見守っていた僕の顔をじっと見つめてきた。今も、あの可愛かったモル(という名前だった)の、こっちをじっと見つめていた顔が忘れられない。あのあと、またカゴの奥へ戻って、旅立ってしまった。
飼っていた猫の福も、さいごは僕の顔を見て、ニャアア! と言って、事切れた。あの夜、ちょっと不思議な体験をした。布団に入っていた僕の心臓が、急に痛くなった。あ、福、心臓発作… 心臓疾患だったんだ、と思った。
僕は心の中で福に言っていた。ごめんね福、まだオレそっちへ行けないんだよ。まだこっちでやらなきゃいけないことがあるんだ。ごめんね、福、ごめんね、何回も心の中で言っていたら、痛みも遠のいた。
「一度死んで、こっちへまた戻ってきた人の本、読んだんですけど」と整体師が言う。
「その人は、自分としてここにいる、というのが、(あっちの世界で)わかるんです。でも、そのまわりにいる、たくさんの人たちとも、ひとつになっている、という世界だったそうです」
「個と全体が、ひとつになっている…」
「そうそう、個と全体が」
死後の世界なんて、僕は知らない。でも、もしあるとしたら、それは「生」がうまれた場所でもあるだろう、と思う。なにしろ生は、死と同じ… というか、生と死があって初めて生命と呼ぶんだろうし、生命というのはひとつのカタマリ── もともと個々個々はひとつだった、そんなイメージがどういうわけか僕にはある。
どんなにイガミあっている他人どうしでも、犬や猫やオオカミ、小鳥も魚も、虫も植物も、モトは同じだったんじゃないか、というような。
手塚治虫のマンガの影響もあるかもしれない。
とにかく、さいごのときが来たら、ありがとう、と言えるようになりたい。そばに誰もいなかったとしても。ウラミだとか、悔いだとかがあっては、そんな言葉も出て来ず、ほんのり笑うこともないだろう。
そのあとのことは、そのあとのオタノシミである。
とりあえずこの世で、せいいっぱい、といっても今までとあまり変わらないかもしれないが… 今回の病気は、そんな時間の尊さ、今生きているということを、実感として体験できた気がする。しみじみと、しんみりと。