創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

ブッダとソクラテス

 ソクラテスは対話をすることで「真実」を確認していたように見える。

ソクラテスが最も賢い人です」と巫女みたいな預言者が言っていたと人づてに聞き、わざわざ確かめに遠方の彼女のところへ出向いたりもしていた。

 私はこう思うが、君はどう思うね?

 君はどう思う? 私はこう思う。

 

〈真実は対話の中でしか生まれない〉

 そう、ブッダソクラテスも、何も著していない。「書く」ひとり作業から真のものは生まれないということを、知っていたからのように思える。

 相手と私が、あるテーマに対して議論をしたとする。論破したら勝ち。されたら負けだ。

 だがソクラテスは、勝っただの負けただの、そんなことはどうでもよかったのだ。

 そんなことより、真実の方がよっぽど大切だったろう!

 負けた人は「恥をかかされた」と感ずる。アテナイの広場で毎日のように行われるソクラテスとその相手の議論。それを見守る聴衆が、いつもいた。

(最期の裁判でソクラテスが有罪となったのは、裁判員たちにその時の「恥をかかされた怨み」があったからだともいわれている。ああ人間の虚栄心よ!)

 でも、もしソクラテスが議論に「負けた」としても、彼は悔しいとも恥ずかしいとも露ほども思わなかったろう。

 顔をしわくちゃにして喜んだだろう。真実を知ることができたのだから!

荘子は「分かる」ことは「分ける」ことで、真理というものは分けられないものだと言っている。真理は常に1つ、しかも「1」とも言えないものだ、なぜなら1と言えば2になり3になるものだから。真理は、そんなものではないと言っているが、荘子のことはここでは触れない)

 ブッダも、 やはり真理(まことのことわり)の求道者だった。

 インドだから宗教という括りになるが、ソクラテスの哲学と、その足の進め方は、とても似ている。

「生きる意味」「生きるとは?」を探求する── 宗教・哲学の目的は「どうしたら幸せに生きることができるか」。

 自分をよく見つめ、自分の中から「悟り」を見つけたブッダと、「答は自己の中にある」と言いながら、対話から「真実」を見つけようとしたソクラテス

 デンマークキルケゴールは「他者は自己を知るきっかけにすぎない」と云っている。

 

 とりとめのない話になった。