シルヴィア・プラスが好きである。
イギリスで生まれ、アメリカに育った彼女は、31歳で自殺した。
「The Bell Jar」(さかさまになったコップ)という私小説と、多くの詩と、2人の子どもを残し、ある朝突然ガスオーブンに頭を突っ込んだという。
「わたしの顔のまわりには、いつも、さかさまになったコップが吊るされていて、わたしはいつもその中で自家中毒を起こしている」
死ぬしかない女性だったのだろうな、とおもう。
そうすることしかできない、できなかったのだろうとおもう。
そんな「自分」というものを抱えて、生きながらえてきた人を知ると、何かがこみ上げてきて、どうしようもなくなってしまう。
この国では、山田花子という漫画家が25歳で自死していることを、最近知った。
喫茶店のアルバイトをクビにされた彼女は、また働かせてもらおう、と、閉店後もシャッターの前に座り続け、精神病院へ送り込まれたらしい。
なぜ死ななければならなかったのか、ほんとうのところは、わからない。死んだ本人も、わからなかったのではないか、とさえおもう。
ただ、本人にしか見えない、現実というものは、あった筈だ。
春の陽光、おだやかな風、縁側の向こうに木漏れ日さす、横長の庭。
「これが私の死ぬ理由です。どうぞお受け取り下さい」
結った日本髪、黒い和服。畳に敷かれた座布団の上、両手をついて相手に差し出す。
紫の風呂敷にくるまれた品。
儀礼に沿って、自分の死にたい気持ちを箱に詰め、よどみなく相手に差し出してみても、受け取る相手は困惑顔。
いちいち、しゃちほこばらないと、自殺の話もできないのだろうか。
当人にしてみれば、自殺したい思いにさいなまれ、そこにしか「真実」が見えなくなっているとしても。
─── 自己の開放を。そこから、人との関係を。
死ぬの生きるの、口にすること自体、常軌を逸した行為なのかもしれない。
明るく、健康感に溢れた前向きな文を、私は書けない。
信じているのである、絶望の中に希望がある、と。
疲れて、もう人生投げちゃいたいなー、とぼんやり思う夜なんかに、ああ、あんな奴でも生きているんだから、ワタシもなのかなと、気づいてくれたら、ありがたい。
倒れている人間に向かい、さあ、立って、と相手の腕を私の肩にまわし、引きずり起こすようにして、歩いていこうという姿勢、私には無い。
相手の横で、一緒に途方に暮れるか、ただ、相手の横にいるだけだ。
それが精一杯、生きることに疲れた人に、唯一、私のできることだと思っている。
私は弱い。
自分の体重を支えるだけで精一杯の誰かとめぐり逢ったなら、笑い合って一緒に息をして、生きていきたいと切に思う。
ネズミは、群れる数が一定数を超えると、自分からすすんで川へ飛び込んでいくという。
ニンゲンは、自己の中に、幾人もの「人口」を抱え、そいつらを収集できなくなって、川へ向かうのではないかしらん。
汚れた川を、見続ける勇気を。
(2005年、春)