年末、押し入れの中を整理していると、一通の古い、ぼやけた手紙が出てきた。
2500年ほど前の手紙らしい。
「生命は、様々な形に生まれ変わることを、われわれは信じておったものです。」との書き出し。(以下、原文ママ)
何しろ、われわれの国では、「輪廻転生」が一般的な死生観でしたから、生きていることを、そんな重要に考えていなかったです。だって死んでも、どうせまた生まれ変わるんですからね。
いつ生まれた・いつ死んだ… たいした問題じゃございませんでした。生まれたが一瞬で、死んだも一瞬で、ただ、その間がちょっと長いんですね。
で、われわれ、あれこれ考えました。ええ、その、生きてる間に。
あれこれ想う、心、気持ち、まことに面白いものでした。それを高めるにあたって… 形のないものに高いも低いもないんですが… とりあえず「すごい!」と賞賛を浴びる人はありまして、そのレヴェルの高低を決める仕方は、ゲームのようなものでした。
いろんな人がおったですよ、ずっと太陽を見続けて眼を潰した人、土ばかり食っとった人、何日も食しない人、木の上からけっして降りない人。彼らは、狂人になりませんでした。むしろ「どれだけ狂えるか」を競って、「精神を高めて」いた具合でした。
モノがあまりなかったですから、「ヒト」に人の関心が行っとりました。個人、という考えはなかったですね。だってみんな死んで行くんですし、今度生まれ変わったら私はあなたになるかもしれない、彼が私に、私が彼女になるかもしれない、石ころか、小魚か── 眼に見える、存在するもの全てに、自分を投影していましたから。
「あいつとは、どうもウマが合わん」そう思う人と出会ったら、「前世、前々世、前々々々世で、まだ自分はあいつになっていなかった、だから分かり合えないのだ」と考えられたものでした。
ええ、疫病、貧困、洪水、干ばつ、差別…いろいろ、ありましたよ。苦しい時代でしたから、いかがわしい宗教も流行りましたね。生きるとは、生命とは、われわれは何か、ということ、けっこうみんな、真剣に考えとりました。考えざるをえなかったんです。
そんな時代に、ブッダが現れました。海の向こうでは、ソクラテスという人が現れた、と風の便りに聞きました。国は違えど、人間存在について考える時代だったんですね。
ソクラテスとかいう人は、「自分の心を養いもせず、まわりからどう見られるか、そればかりに気を遣って、恥ずかしくないのか」と申していたとか。
われわれの国にも、眼に見える現実に限らず、精神の貧しさから抜け出したいとする動きがありましたので、まったく、そのソクラさんに共鳴しました。国交があったなら、ぜひお招きしたかった。善き友になれたと思います。
まあ、これも運命ですね。今やわれわれの国も、あの海向こうの国も、偉大な思想家が死んでしまって、よく分からない事態になっています。
「ホレ見たことか。眼に見えない思想、哲学や宗教なんて、何の役にも立ちゃしない。経済や科学、医学の方が、どんなに役立つことか」そんな声も聞こえます。
ですが、私は信じておるのです。ヒトは、とどのつまり、そのような眼には見えぬものによって、根元的に動かされている、と。
この根元を見るためには、思想・哲学的なものが、どうしても必要になります。宗教は思想の親戚ですが、信心によって思考が停止するおそれがあります。
金銭ばかり追っても幸せになれぬこと、肉欲ばかり欲しても果てしないこと、われわれ、もうとっくに、頭では分かっているはずなのに、懲りずにそれを求めています。
うつろう心の奴隷にならず、よく生きるために、生きるために、生きる。そして死ぬ。そのための基盤、足場づくり。それが思想、哲学なのですが、それを私は大事にしたいと思うのです。
歴史は繰り返すといいますから、かつて栄えた文明のように、科学、モノ、金銭ばかりが信奉される世界が、きっとやって来るでしょう。
自分で自分を考えるのでなく、まわりにあるものから自分を照射し、そこからしか考えられない時代が来るのでしょう。
で、また、それにも飽きが来るでしょう。繰り返す歴史から、何も学ばないなら、それがヒトの運命だったのでしょう。
われわれの住む地球も、いずれ死にます。そしたらまた、どこかの星で、試されましょう。
そのときまで、どうぞお元気で、いらして下さい。
では、また。