創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

やさしさ

 旅館で働く客室係の女性が、厨房でヤカンの熱湯を誤ってこぼしてしまい、悲鳴をあげてうずくまった。両足に、かなりの量の熱湯を被ったのだ。
「誰か、水! 早く、水!」彼女は叫んだ。

 それを見た皿洗いの男は、水を持って行くのではなく、そのヤカンを手に取った。そして自分の足に、わざとその熱湯を同量かそれ以上を掛けたのだった。
「あちちちち!」男は情けない悲鳴をあげた。
 女はあっけにとられた。男は火傷の痛みに悶絶している。

 部屋で、それぞれが自分の火傷の手当てをしながら、ふたり、突然げらげら笑い出した。女は、「けったいな人やなあ、あんたは」と言いながら。男は、女と同じ「痛み」を味わえたことに奇妙な喜びを感じながら。男は、女に好意を抱いていたのだった…
 これは戦後文学の椎名麟三の小説(題名失念)の一場面で、私に忘れ難い印象を残した。

 この場面のことを、むかし私を取材に来てくれたルポライターに、話した。話題が、「自殺」というものに触れたからだ。中学時代、自殺を考えていた友達を好きになり、私も自殺を考えていたが、「一緒に生きて行きたいと思った」といった話の時。

椎名麟三は、何を云いたかったんでしょうね」その人は、しかし何か「わかる」という手ごたえ、そこに何か問題の核心がある、といったような反応をみせた。
 だが、私にはうまく説明できなかった。きわめて安易な言葉で、椎名麟三のその描写と、私の中学時代の恋人とのことを比べ、何か言っていた。うまく説明できなかった。

 とにかく、あのヤカンの熱湯の場面は、何かを強く象徴しているように思える。言葉にすれば、「人の痛みが分かりたい」とか、そのような言葉でしか言いようがない。

 別の人に、このヤカンの話をした時は、「うん。やさしさっていうのは…」と、まっすぐ私を見つめ、「…」の後、その人は口ごもってしまった。何かの本質的なこと? に触れたような、興味深い話だという感じで。
 私は、(ああ、やさしさか…)と思い、その「…」の後に続く言葉を想像した。もう、あれから30年くらい経ったが、彼の「…」の後は、なお埋まっていない。
 今はもう、埋まらないままで、いいのではないかとも思っている。