創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

「お前はもう自分のための人間であることは許されていない」

 これはベートーベンの言葉。音楽は音楽家の人となりを表し、文章は作家の人となりを表す… ベートーベンの音楽を聴いていると、この考えを基盤に置いて、疾走滑走、創作していたように感じる。

 この言葉、「子どもではなく大人」「社会的な人間」… そんな強い自覚と通ずる気配もある。

 もう自分のための時間は過ぎた。主観でなく、しっかりと客観も自己の内にまぜこんで、分裂することのない旋律を作って行こう… 心層の決意表明の言葉に聞こえなくもない。

 考えてみれば、多くの人が、これを基盤に生きている気がする。

 一家の主も、会社社長も、責任を持つ立場にある者は、すでに「自分のためにのみ存在する人間ではいられない。」

 しかし「自分のために存在することが許される」人間とは、どのようなものだろう。

 真っ先に思い浮かぶのが政治家── 彼らは権力を持ち、それによって自身が守られているかのようだ。張りぼての、取って付けた鉄面皮。雛壇に飾られた人形。

「ここに上がれる者は、限られた、選ばれた人間なんだ」
「一般の、民とは違うからね。だって我々が、民の生活基盤をつくるんだから。庶民と同じ地位にあっては、ならないよ。

 君らだって、妻子や親がいるのなら、家族にイイ思いをさせたいと思うだろう。権力側に立てばね、名誉も金銭も、相当に得られるんだよ。この味を知ったら、もうやめられないよ」

 この場合、だが彼らは、自分のために存在しているのだろうか。

 それとも、自分以外の者のために? 形而下では、両方のためだろう。

 だが、形而上では、どんなに誤魔化しても、自分のためだ。その欲を満たすためだけに存在している。

 形而上は、自由。形而下は、不自由。恣意、私欲に走ってはならない立場の人間は、自分のための人間であることは許されない筈だ。

 だが、だんだん事情が変わってきたらしい。形而上の「自分のために」が、形而下を隅に追いやって、それで世界、進んでいるようだ。

 おそらく、彼らの支配下にある民も、もちろん「自分のため」を第一義にしているから、権力に対して不満はあれども、およそ「イイ社会をつくろう」などと思えない。自分のことで、手一杯。体のいい、あきらめ。

「イイ世の中、社会をつくろう」とした時代もあったように思うが…。戦後? 高度成長期?

「今日は哲学の日だそうです」と、FMが言っていた。で、椎名林檎の「幸福論」なる曲がかかった。
 信念、情熱。何かを創作する際、絶対不可欠であるかのような要素。


 それが外へ向けられず、自己の内へ内へ向かう。外… 社会に向かうとは?
 理念、理想… 内に向かいながら、外に向かう。それを、一枚の楽譜に、旋律として表記すること。

 2つのベクトルを持った自己を、信念と情熱をもって統一すること。それができないと、こんな酷い文章になる。

 

(4月27日)

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