家から歩いて5分ほどの所にあるスーパーマーケット。
本店もあって、しっかり広告も出し、れっきとしたスーパーなのに、個人商店の趣がある不思議なスーパー。
レジは3つあるが、稼働しているのはいつも2台だけで、午前と午後で人は違うが、いつも同じ人がレジを打っている。
まず店に入ると、左手に立つレジの婦人が「いらっしゃいませぇ」と朗らかな声を響き渡らせる。店内に活気はない。電気代を節約している旨の書かれた貼り紙があって、精肉コーナー辺りは特に暗い。客も、まばらである。
野菜コーナー、鮮魚コーナー、精肉、惣菜、飲料、乳製品、パン、お米のコーナーが店内のぐるりで、その他諸々の物ももちろんあって、どう見てもスーパーであるはずが、どうしてかスーパーらしくない。
駅から離れた住宅街の一角にあって、局地的な立地条件に、局地的な客しか来ないのが、その閉鎖的な風情を為していると思われる。
この閉鎖性と相成って、店内の雰囲気は常に落ち着いている。いつ行っても変わらぬ、時間に取り残された、永劫の気配さえ感じられる。
あけすけな、けっして裏表のなさそうな、いらっしゃいませぇの婦人と、もう1人、おとなしい婦人が、午後のレジ担当。この後者の婦人は、以前、客からナンパされていた。私の前にいた、中年の紳士風の男が、「今度、食事にでも行かない?」といったようなことを、ニヤニヤしながら、のたもうていた。
言われた彼女は、返事をせず、金銭の授受を行ない、少し迷惑げに、どうもありがとうございましたと言うだけだった。
確かに、綺麗だし、まじめで、接客の仕方も丁寧で、好感をもっている客は多いだろう。私も好きだ。ご老人の、重い買い物カゴなど、せっせと袋詰めの机まで運んでいるし、年末の閉店間際には「どうぞ良い年をお迎え下さいませ」とレジ越しに客に言う。
丁寧さが、型にはまり過ぎて、事務的な印象もあるけれど、レジ越しに、ホッと安堵を与えてくれる人だ。
きわめて個人的なことで、どうでもいいことを書いたが、これから、もっとどうでもいいことを書くことになる。ただ昨日、レジ越しにやりとりした、ほんの数秒が、とても気持ちよかったので、書きたいだけである。
「いらっしゃいませ、こんにちは」と言われ、「こんにちは」と挨拶を交わし、カード払いで済ます際、「いつも丁寧に、ありがとうございます」と私は礼を言った。
カードを差し込む機械の引き抜きは、客がやるのが通常だが、彼女はわざわざ手を伸ばし、抜いて、渡してくれた、親切な心に対する礼でもあった。すると彼女はほんとうに嬉しそうに、私を真っ直ぐ見つめて笑ってくれたのだった!
あまりに嬉しそうにしてくれたので、こちらもほんとに嬉しくなった。それだけの話だが、店を出た後も嬉しさは続き、ひとりほくほくした気分で、野菜炒めを作ることができた。
つくづく、スーパーのレジというのは、大切な場所だと思う。どんなに品揃えが良くても、人の感じが悪かったら、もう行く気がしなくなる。つっけんどんな、感じの悪いレジの人の所には、絶対並びたくないと思う(たまに、いるのだ)。
くだんのレジの婦人は、いつか私が今夜のおかずに悩みながら通路にいた時、勤務時間が終わったらしく、足早にバックヤードへ行く途中、「こんにちは」と声を掛けてくれた。一瞬のような瞬間で、真剣に食材に悩んでいた私は、挨拶を返せなかった。
そんな過去の、良心の呵責もあって、また、しばらく彼女のレジに行くのが久しぶりなこともあって、余計に昨日の「いらっしゃいませ、『こんにちは』」が嬉しく、そして私の何でもない礼の一言が、とても嬉しかったような婦人の様子を見て、私もとても嬉しくなった、ただそれだけが言いたい文だった。