キリスト教とか信じてる人って、ダーウィンの進化論なんかを、どう思っているんだろう?
椎名麟三は、キリスト者だったが、その評論(エッセイ)を読んでいると、「信じられないということが、基本なのである」と云っている。「何かを信じられないつらさというのは、信じよう、信じようとするから、つらくなるのだ」と。
つまり彼は、キリスト者でありながら、それを信じていない、信じられない人の「味方」でもあったのだ。講演記録の中で、本人もそう言っている。
で、信じられないということは、「理解できない」ということでもあるという。「理解できるから、信じられる」と。
仏教の、おシャカさんは、生まれた途端に何歩か歩いて、天上天下唯我独尊とか言ったらしい。キリストという人は、処女から生まれ、海の上を歩くこともできたそうで、そんなことはあり得ない=理解できない=信じられない、となる。
椎名麟三の信心を、本の中で接していくと、ぼくは感心させられ、微笑まされる。教会で、ある信者が牧師にこういったそうだ、「わたしは、どうしても、信じられないんです。」すると牧師は信者に、「それはあなたの信心がうすいからだ。」といった。
椎名は、「信じられなくて当然ではないか。わたしの家には米がないんです、という人に、米は炊いて食べなさい、といっているようなものではないか。」と牧師を批判している。
ぼくは椎名麟三が大好きなので、なぜ彼がキリスト者になったのか、ぼくなりに理解しているつもりでいる。聖書に描かれた話を、子どもが童話を読むように彼は読んだ。すると、「理解できなかった」聖書が、スッと心に入ってきたそうだ。その心は、彼の言葉によれば「神のユーモア」に、あたたかく包まれたそうだった。
死んでまた復活する理不尽な物語を、理解しようなどとせず、子どもみたいな純な心で接した時、それを受け容れられたということだった。だから彼は、信者にも不信者にも同意を与えることができた。そこに彼は、彼自身の生きる望み、一縷の救いのようなものを見い出した。
作家が宗教を信じるようになったら終わりだ、といわれていた時代らしい。恋愛小説でも、失恋の物語はよく読まれ、得恋のそれはあまり読まれない。その理由は、「恋する自分の世界から離れた所から見ないと、その世界は描けないから。」
しかし椎名は、逆だった。神を信じることにユーモアを見、「神なんか信じられない」一辺倒の道から逸れることによって、多くの作品を生み出した。
得恋と失恋、信じると信じない、その二極以外の「第三の場所」を彼は見い出し、そこに身を置くことで、多作の作家になった。
あれかこれか、のいずれにもハマれず、どっちつかずの半端者のぼくには、「それでいいではないか」と言われている気がする。
「肝心なのは、何かを決めることではなく、どっちを選ぶということでなく、そのいずれでもない第三の場所で、しっかり生きることじゃないか」と。