創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

怒りの調整

 アンガー・マネジメント。生きる上で、かなり大切なことらしい。
 喜び、悲しみといった感情は、他者と笑い合い、泣き合うことができる。手をとり合い、抱きしめ合うことができる。
 だが、怒り。これは自己の中でふつふつと湧き燃えたぎってくる感情で、他者との優しいふれあいを拒む力を持っている。
 この感情に捕まって、どれだけの罪が犯されたことだろう!
 一時のあやまちによって、償いを一生することになった人が。

 憎しみ、嫉妬も怒りの親戚だ。「負」の感情。しかしこの感情の真っ只中にいる時、本人はマイナスどころかプラスを飛び越え、もはや計測不能の域に到達している。「負」に気づくのは時間が経ってからのこと。
 正義も、怒りに大きく加担する。自分は正しいという意識は、正義の産みの親になる。

 俺は正しいのに評価されないとか、あいつは間違っているのにチヤホヤされているとか。
 自分はこんなに彼女のことを思っているのに、あんな男を好きになって、とか。
 どうしてこんな自分なんだろう、どうして彼はあんななんだろう etc.
「こうありたい」「こうあるべき」は理想で、理想は「正しくない」の反語と言っていいだろう。

 この怒りに捕らわれて、僕は自分の足をずいぶん引っ張ってきた。
 正しいことをしていると思っていたから、足枷とも思わなかった、と言えば嘘になる。
 ああ、こんなオレなんだな、と自己憐憫のふりかけをかけて、窮鼠といえど猫を噛まず、その場(主に職場)から逃げて逃げて逃げまくった。

「求めよ、さらば与えられん」という言葉がある。神様などはどうでもいい。
 言えるのは、「自分がこうあろうとすれば、願えば、それに近づけること」だ。
 それは確かに言える。
 モンテーニュのように城に籠って、ひとりで何かする姿に、僕は少年時代に憧れた。
 キルケゴールの、本当のことへの探求、どこまでも一人で突き進んで行くような姿に憧れた。
 憧れというより、そういう要素が自分にあったから、心に彼らがすんなり入ってきた。

 だが、少年時の僕の環境をつくっていた親きょうだいは、「自然に任せる」という老荘思想的なものだった、今から思えば。
 穏やかな、怒りとは無縁の家庭に育った自分が、どうしてこんな怒りっぽくなったのか。
 なぜこんな自己になったのか。
 誰にも読まれずとも、ヒトとして生まれた僕の、晩年の「やるべきこと」は、この自己探求、人のことは必ず考えているから「自分の体験から人間を考察する」という、今まで沢山の人がして来たことと何ら変わらないだろう。

 アンガー・マネジメント。これについて今困っているのは、特に何も怒る対象がないことだ。いちいち、探そうとも思わない。