創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

虫の小言

 ここ奈良にも、いよいよ某ウィルス、過去最高の感染者数の見出し、ニュースに。
 住んで10年近く経つけれど、市長、県知事、何をしているか、さっぱり分からない状態。でも、何もそれは、ここに限った話ではないか。
 家の近所、よく行くスーパーの前の道路にも、オリンピックの聖火ランナーが走るらしい。元々オリンピック反対だったから、見に行こうなど露ほども思わぬが、よくぞまぁ日本中、駆け巡るものだと思う。そして、よくぞ見る人たちが集まると思う。

 とにかく世はカネ、人もカネ。カネこそ最大、至高のものなればこそ、権力者ここぞとばかり、カネになるものにカネを注ぎ、権力者どうしぐるぐる札束回し、我が身良ければそれでヨシ。なんとも素晴らしい、この世の春、悔しかったら、やってみな。やれないんなら、贅沢をするな、言うことを聞け、無駄な抵抗をするな、清貧に生きよ、何も考えるなってか。何、もう若くない? なら、死ねってか。
 ごもっとも! スんばらシい、国の在り方、政の在り方、民の在り方、思考の仕方でごわす。

「全力で」「しっかりと」対策をする、とは、どういうことなのか? 何も言っていないことを公然と言う。だいぶ前に、なんとか党の党首が、「がんばって、やります」というニュアンスで何か言っていたけれど、虫の私だって、仕事をする時は、がんばっていた。全力で、しっかりと働いていたつもりだ。当たり前のこと、いちいち言葉にする為政者に、虫として気が抜ける。

 このウィルスのイヤなところは、もし家族が感染し、死んでしまったとしたら、もはや感染した時点で、永遠に会えなくなるということだ。この点、単なる風邪とは、断じて言えない。「with コロナ」なんて標語を掲げられても、「コロナに勝った証しのオリンピック」なんて言われても、どこに向かって、どういう根拠でそんな言葉が出てくるのか、見当もつかない。実際に亡くなられた方の親族は、withなんて、悲しいだろうし、コロナに勝った、の過去形の由来も訳が分からない。

 単純な虫、単細胞の私としては、パソコンで見える為政者、権力者の顔を見る度に、その影響を受けて、簡単にげんなり、あらゆる気力が失われる気がする。世の人の暮らしの基盤を作るといわれる、お偉い人達が、あまりに品のない、浅ましい、貧しい物に見えて、やってられない気になる。そんな影響を受けて、そのせいにする自分が弱すぎるのは自覚している。

 ともあれ、このウィルスに、2つの見方をする自分がいる。1つは、これも、どういう訳でか分からぬが、生まれ落とされた生命として、頑張って生きようとしているのだという見方。あらゆる生命が、そうして「居る」のだという、大局的な見方。
 もう1つは、近しい人が、もし罹患し、ひとり孤独に、隔離された部屋で、苦しんで死んで行くのみ、という状況になった時、「コロナよ、その人は大事な人なんだ、苦しめないでくれ」と、自己都合も甚だしく、神にもすがる気持ちになるだろう、という想像からの見方。

 大らかに、それも自然の一部だ、などと悠長に構えた自分はどこへやら、身辺にそのウィルスが迫ったら、後者の見方に呆気なく捕らわれる自分が目に見えて、ひとつのウィルスに対して、ふたつの、分裂した自己があることになる。


 為政者、権力者が、とってもイイ生活をしていて、コロナなんかそのうち収まる、と呑気に構えているとしたら、それは前者の私にも似ていて、もし彼らの親近者がコロナで苦しんだとしたら、その時は後者の私のように慌てふためくのではなかろうか。


 ならば、私も、あの貧相で、品のない人たちと同じである。ああ、何も言えなくなった。でも、言う。「嘘をつくのは、やめようよ。」これだけは、私、自分を鏡に映しても、後ろ髪引かれることなく、堂々と言える。
 嘘をつくことだけは、やめようよ。

 

(コロナ禍の頃)