創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

夢の中の写真

 夢を見るということだけでも、寝ている間の、知らない自己が主体的に世界を見、その枠内にいるという話であるのに、さらにその中で写真という枠の中を見る、「二重枠」の夢を見た。
 ほんのり微笑みながら目覚めた。

 大抵、見る夢の共通点は、「まわりから遅れをとっている」「思うように体が動かない」(まわりがあまりに速く動いている)、「今いる自分の位置がわからない」というシチュエーションが多い。だからいつもひとり、とり残されている。

 今日、明け方に見た夢も、そうだった。仲の良かった二人の友達と、どこかのホテルに泊まっていた。朝食のためにレストランへ行くが、自分だけ迷子になるのだ。二人の友達は、バイキングで、好きな物を食器に入れている様子。だが僕はそれを入口で見ているだけで、中に入れない。何かが気になって、入れない。資格がないのかもしれない。

 レストラン内は暗く、彼らの姿が見えなくなる。僕はとなりの、待合室のような部屋に入った。ソファーが二つ、テーブルには灰皿がある。入り口のそばにホテル従業員の女性が制服を着て立っている。だが僕はタバコを吸う勇気がない。ヨレヨレのジーパンで、みすぼらしい恰好をしている。

 そしてその待合室のような部屋とレストランの間の通路で、「写真」が、自分の心に浮かんだ風景の切り抜きのように、一枚一枚が現前に、眼の前に、リアルそのものといった立体をもってあらわれたのである。投影機で映された、3D映画のような、古い8ミリビデオのようでもあった。だがそれは写真なのだ。

 友達が、メリーゴーランドに乗って、こっちに向かって笑っている。
 次の写真は、彼が赤ちゃんを抱っこして、横顔で、赤ちゃんに向かって嬉しそうに笑っている。
 次の写真は、彼がオモチャの馬から降り、赤ちゃんを抱きながら、右斜めこっち側に向かって歩き出す姿。太い、青と白のボーダーの、明るい囚人服のようなパジャマを着て。

 そこで目が覚めた。覚めぎわに、もうすぐチェックアウトだが、僕は自分の部屋がわからない。友達の姿も見当たらない。焦るが、焦っても仕方ないと、どこかで安心にも似たあきらめを持って、そこで目が覚めた。

 メリーゴーランドにいた友達は、裏表のない、ほんとに正直な友達で、その写真の中でもそのままだった。で僕は彼の変わらぬ笑顔を見て、ほんわりと、ほんとに笑うことができていた。現実の過去では、よく工場まで車で送ってもらい、一緒にメシを食い、いろんな話をして笑い合った友達だ。

 もう一人の友達は、中学時代に仲が良かった。夢の中で、いつのまにかいなくなってしまった。
 写真の中の彼は、もう役職に就いて、子どもも大きくなったろうな。今また逢えたとしても、もうあの頃のように話は弾まないだろうな。いや、弾むのかな。

 涼しくなった晩夏の朝、いい夢を見た。