創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

⑥ 発端

 まず歴史上の人物、人間としてゴータマ・ブッダがいた。この実在が、私にはとても興味深い。2500年の時間を経ても、その言葉が残っていることもありがたい。弟子たちによって神聖化され、口から虹色の息を吐いたとか、空を飛んだとか、産まれてすぐ立ったとか、それはやりすぎだと思うけれど、そういう弟子たちのおかげで言葉も残っているわけだ。

「この世の怨みは、怨みをもって鎮まることはない。これは永遠の真理である」とか、「水には形がない。丸い器、四角い器などに入れることによって形を為す。人間は各々、自分自身をよい器と為すことができる」ようなことも言っていたし、何といっても「自分自身以外に、誰を頼ることができる?」といった感じのスタンスが、私のお気に入りなのだ。

「1つの考えに固執してはならない」とも言っている。
 筏(いかだ)の話として、川を渡る際、筏を作って川を渡った。その人は、「この筏は大変役に立った、ありがたく思って背負って行こう」と考えた。一見、善い心掛けだが、ブッダはこれを否定する。「その時、役に立ったのだ。それでいいではないか。重荷にすることはない。そこに置いて行きなはれ」と。

 私はブッダを哲学者のように思っているのだが(ニーチェは衛生学者と云っている)、インド哲学ギリシャと違い、宗教の形であったと考えている。まったく、インドにも懐疑主義、厭世主義、絶対主義、唯物論、様々な考え方、ものの捉え方があった。
 他の信徒がブッダの弟子になりたいと言った時、ゴータマさんは寛容だった。「いや、よく考えなはれ。今まで、あの人の教えのモトにいて世話になったんやから、簡単に投げ打ってはいかんぞえ。よく考えて、それでも私がいいんなら、そうしなはれ」みたいなことを言い、いわゆる勧誘をして信者を増やそうみたいな考えはなかった。

 何としても、ゴータマさんには自信があったのだ。
「私はただ真理を説いただけで、指導者ではない。私を頼りにするな。真実は、いつも1つなんだから。ずっと私は、それを話してきたではないか」
 そんな言葉もハッキリ言っている。
 そして経典には、ゴータマさんが「私は瞑想によって完全な悟りを得た」と明言した言葉も残っているという。その仔細なやり方も書かれているので、1900年代にタイのお坊さんが着目し、「呼吸による瞑想法」として本を著した。
 で、今年、奈良の近所のお坊さんも、「いろいろ本を読んだが、これが一番具体的で分かり易い」ということでこれをテキストにし、ご本人も「自分のために」マインドフルネス講座を無料で始めたというわけだった。