創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

⑤ 生かされているということ

 正直なところ、なかなか筆(キーボード)が進まない。何故だろう? 書きたい事柄ではあるのだが…。
 テキストに多少の反感があるのかもしれぬ。ちょっと宗教的だと思える箇所もあるからだ。また、ここで私は「説明文」のように書いているので、妙な責任めいたものも感じている。
 マインドフルネスは「呼吸する身体」をみつめる瞑想だが、どうしたところで精神的なものの比重も大きいと思われる。その精神とは、ひとりひとり異なったものであるし、それを一筋の道のように十把一絡げに舗装したくない気持ちもある。ひとりひとりがイイと思ったことをやるのがイイわけで、何もこの瞑想が絶対的なものではないのだ。

 私はブッダを、ソクラテスと同等に見ている。ただ、かれらが好きなだけなのだ。そのブッダがやっていた瞑想法であるというだけで、マインドフルネスをやっている。何も、人のためにやっているわけではない。
 だが、ここに書くという時、どうしても「人のお役に立てるのでは?」という期待が自分自身にあったのだった。私が文を書くのは自分が愉しみたいためであって、人のためではない。これを読んだ人が、多少でも気持ちが楽になった、そんな結果になれば私も心から嬉しいだけで、ほかに何の他意もない。

「人」への意識…「人のために」が自分の中で少し大きかった気がする。これでは、自分が座せない。それで筆が進まないことに思い当たる。今までの自分の生き方のようだ…
 です・ます調も、どうもしっくり来ない。手紙ならいいけれど、ネットは不特定の人に向かうわけで、雲に向けて手紙を認めている気分になる。書く作業はそういうものかもしれないけれど、私と雲の間にマインドフルネスを媒介させることで、雲の層がいっそう厚くなっている。

 どうしたらよかんべかな、と思いつつ、こりずに続けてみよう── 書きたいから書こう。読みたい方は、読んで下さい。
 続き、やります。

 今までも、実感としては親や周囲の人、忘れがちなところで植物や陽、雨、ひろく言えば地球、宇宙によって生かされてきたわけですが、まず自分の身体に生かされている、ということを、マインドフルネスでは最も重要視します。
 自分がいなくても世界はあるでしょうが、自分の世界はありません。自分が生まれたということは、紛れもなく特別なことです。
 そしてこの身体は、生まれた時からずっと呼吸をしているということです。この「呼吸」を大事にすることは、自分の生命を大事にするということです。そのツールとして呼吸による瞑想がある、ということです。

 まず、楽な体勢で椅子に座ります。姿勢はなるべく真っ直ぐに。正しい姿勢は、呼吸を助けます。手は、どこに置いても構いません。自分が楽だと感じるところで。
 キッチンタイマースマホの目覚まし機能を使って、10分後アラームが鳴るようにセットします。眼は、上唇と鼻腔の間、鼻先を見つめます。鼻から息が出入するので、鼻先を「プールの監視員」、見張り番のようにするわけです。途中で眼を閉じても構いません。

 あとはただ、鼻から呼吸が入り、お腹、おへそに行くのを見つめます(へそまで実際には空気は行きませんが、そうイメージします)。呼吸を見守る、呼吸のあとを追う、というふうに、ゆっくり呼吸を見つめて下さい。
 おへそまで息が入ったら、今度はおへそからお腹、鼻へと出て行く息を見つめます。また鼻から息が入って、お腹、おへそ… 見つめます。これをゆっくり繰り返して下さい。電車の中、バスの中でもOKです。
 いろんな雑念、想念が頭に浮かんできて、呼吸の道筋をたどることだけに集中するのは難しいですが、自分がどのように呼吸をしているのか、それだけを見つめるようにして下さい。
 10分経ったら終了です。