この「マインドフルネス」の連載。さしあたって有名な(?)瞑想法であるから、迂闊なことは言えない、と慎重に話すつもりだったが、それではあまりに型にハマろうと自分に強いて不自由だ。
お寺の住職から戴いたブッダダーサ著の「呼吸によるマインドフルネス」の100枚近いコピーを元に、あくまでも「私のマインドフルネス」、私の実体験・解釈で、話を進めていきたいと思う。
さて、ダンマの話に戻る。
このブッダダーサによるマインドフルネスは、いくらパーリ仏典のアーナーパーナサティスッタに着目しているとはいえ、どうも自己啓発的な要素が強いと思われる。要するに、「こういうことをしたら、良いコトがありますよ」。
べつに、良いことを期待して瞑想するわけではないと思うのだが。ただ淡々と、頑張るでもなく休むでもなく、1日10分の瞑想を続けることが肝要だと思う。
ただ、その最終到達点がニルヴァーナ(涅槃)であり、そのためにはダンマを理解することが大切ですよ、とブッダダーサは言っている。
ということで、もう一度、身体、感受、心、法、というものを見てみます。
私は介護の仕事をしていたので、ご飯時の方は申し訳ないですが、便の処理もしました。その際、まず便というものが眼に見え、それに伴う臭いもします。
これは、眼と鼻が「感受」し、その作用としてイヤな気持ち、つまり心が生まれる、ということです。しかし、法(ダンマ)とは、自然すなわち自ずからそこにあって、それ自体として厳然と存在する、「ものそのもの」であるということです。
私はストマー(人工肛門)を初めて見た時、ほんとうにショックでした。このショックを受けた自分をどうしようかと、手こずりました。心の置き場所を探した時に、「ああ、これは物そのものなんだ」と思いました。
その物を眼がとらえ、鼻が嗅ぎ、その作用としてショックを受け、ビビる心が生まれた、ということでした。
こうした道程を辿った自分を、自分の内に観察することで、私は冷静になれたと思います。
職場で色々、教わることも多かったけれど、自分はチャンと覚えられるのか不安で、心臓ドキドキ、少々パニックになっていました。しかしまぁあぐらをかいて、10分ほど瞑想すると心が落ち着き、昨日メモったことを清書し直し、ドキドキも治まったという具合です。
この呼吸を意識する瞑想は、身体→ 感受→ 心→ 法、というものに、それこそ自然に通じていくように思います。
次回は、その瞑想法の仕方を、具体的に話したいと思います。