創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

スナックにて

 ぼくは、引きこもる前、働いていた職場で親しくなった人に、いろいろな未知の場所へ連れていってもらった。
「キャバクラ」という場へも、このとき初めて行ったが、特に面白いとも思わなかった。チャイナ・ドレスとか着た女の子が隣りに座って、ただ、話をするのだ。お酒を注がれて、何でもない話をして、50分、1人4500円とかである。

 制限時間の5分くらい前になると、店の男がテーブルにやって来て、花を1本、置いていく。たぶん造花だと思う。
「どうしようか。」客の男たちは、数秒の会議を開く。そして「延長!」とか言って、また財布から、帰りの電車賃を気にしながら4500円などをもぞもぞ取り出すのだ。

「スナック」という場所への本格的なデビューも、その頃だった。4人くらいで行くと、ボックス・シートに座らされて、女の子がふたりくらい、つく。2人くらいで行くと、カウンターに座って、カウンター越しに、何のかんのと話をする。カラオケで歌ったりもする。

「今日はね、女の子の日なの。」
「女の子の日?」
「血液の循環が良くなるせいか、酔っ払うのが早くなっちゃうじゃんね。おっぱいは張っちゃてキツイし。」
 …、ああ、女の子の日、ね。
 そんな、とりとめのない話をして、うなずいたりしているのである。
 それで、ふたりで2時間くらい、いて、7000円とかである。

 ぼくら(1人でぼくは絶対に行けないので、「ら」を付けさせていただく)の行くスナックは、一応料金表は袋とじのメニューみたいに明記されているのだが、いつも、行く度に値段が違う。今日はボトルを入れていないから安いだろうと思っていると、高かったりする。逆の場合もある。

 カウンター席を見れば、頭をタオルでハチマキ巻いて、なぜか懐中電灯をカラオケ本に照らして、選曲を吟味している肉体労働者風の初老のおじさんや、ひとりで競馬新聞を熱心に研究していて、たまに思い出したように女の子と話しはじめる太ったおじさんとかがいる。


 キリリとした背広の紳士や、20代の若者2人組。
「あの人は、いつも出張の度に、来てくれるのよ」という、善良そうなサラリーマン。
 20代は、たいてい大人数で来て、ボックス・シートを占領する。カラオケで、若者たちが絶叫をはじめると、ぼくらは会話を、大きな声でしなければならなくなる。

 一体、何なんだろう、この世界は、と、ふいに思ったりする。
「ねえ、ママさん、」ぼくは、20代のママさんに言う。「悩み、聞いてくれる? ぼくは、こういう所に、合わないような気がするんです。」
 その理由などを述べるが、こういう話は長く続かない。
 で、ぐいぐい飲めば、どんどん注がれる。

 働いて、お金を稼いで、ストレスを溜め、それを発散させるために、そのお金を使い、またなくなって、また働いて…
 そのときは、確かに楽しいけれど、どこか宙に浮いている。何か、ムリがある。あまりにも、あまりにも刹那的すぎる気がする。なんで男って、そんなに淋しがり屋なんだろう、などと、考えたりする。

「かめちゃん、ありがとう、またね~」などと言われて、笑って軽く会釈して、店を出る。雨が降っていた。見送りに来た女の子が、カサを貸してくれた。
 今度、返してくれればいいから。
 うん。ありがとう。
 どこにでもありそうな、安物のビニール傘だったが、ひどく、重く感じられた。