創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

夢と現実の間に

 何が正しく、何が間違っているのか。
 彼が「正しい」と言っているのは、世間がそう言っているからであって、彼自身は何も考えていない。
 彼女が「間違っている」と言うのは、まわりの意見に合わせているだけで、彼女自身の意見ではない。


 自分を失くしていることは、ボケてる人も、ボケてない人も、同じではないか。

 ある人は、その人の面倒を一生懸命みることで、自分の存在価値をつくろうとする。
 正しいことをしている、という意識を強く持って、理解力や記憶力、してはいけないこと、していいことを、子どもに言い聞かせるように言う。

 ある人は、その人に同化して、自分も認知症になったように振る舞う。まだ正誤表を持っているから、やんわり教え諭すように、何か言っているが、基本的にその時間を楽しんでいる。
 言っても、すぐに忘れられる、その不毛さを、心から笑っている。

 どんなに面倒をみたところで、その人の運命まで面倒をみることはできない。それは人間の手の届かない領域だ。人間にできることは、せいぜい、今、今、今の、途方もない繰り返しを、繰り返すこと。
 それだけで、十分ではないか。

 何のために生まれたのか、何のために死んでいくのか、われわれは何も知らない。
 自分が気がつけば、自分がここにいると自覚する。
 気づかなくても、そこに存在していることには変わりない。


 自覚があるかないかの違いは、何も認知症に限った話ではない。
「健常」な人だって、自分が生きているかいないのか、自覚のない人はいっぱいいるだろう。

 しかし誰かが言う、「認知症は病気なんですよ」
 私が言う、「老い、でしょう。自然なことじゃないですか」

「考えてみれば、生きていることは、夢のようなものではないか」
 上古の哲学者に言われるまでもなく、すでに夢の中にいる。

「自分が誰かも知らず、ここがどこかも知らず、何歳かも分からず、今日が何日かも分からないんですよ」彼が言う。
「分かったところで、どうなるというんです?」私が言う。生きているじゃないですか。立派に、生きてるじゃないですか。


 見ているところ…人生観が、違うのだ。
 そしてそんな主観も、たいしたものではない。


 われわれが言い争っている中で、ひとり、その人は争いに加わらない。ひとり、頭の中に旅立っている。
「健常」者だって、ひとりひとり、頭の中で生きているようなものだ。

 この世に、差別・区別は、存在しない。それをつくって、わざわざ自分で苦しめているのが、人間に苦がある根源である──