創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

キョムっちゃう時に

 虚無に陥る、というのは、昔々からヒトに携われた気持ちの1つみたいである。
 大体今から100年もたてば、今僕と同い年の人はみんな死んでいるだろうし、生誕46億年の地球だっていつかは死んで、太陽だって燃え尽きて、一体何のために生きているんだろう、今、自分は、と考えたりするわけである。

 そんな大きな話でなくてもいい。あんなに好きになったあの人への自分の気持ちは何だったのか。あんなに頑張った仕事は、それでどうなるというのか、金を稼いで、それでどうなるというのか、とかとか。
 虚無を感じないでいられるわけがない。そういう感じの時は、波みたいに必ずやってくる。
 で、立ち止まる。休憩。

 僕の場合、「死んだら、もうこの生きている苦しみ(どうしようもない自分であることの苦しみ)から逃れられる、解放される、楽になれる」と考える。
 大体、仕事で体を動かしていない休日に考える。
 ところが、そう考えることによって、僕は安息している。つらい気もするけど、よくよく考えてみると、好きで自殺を考えている。だから僕は自殺することはない。

 前向きに生きるのがヨシとされていそうだけど、いろんな向き方がある。
 死を思うことによって、生きる力が湧き出てきたりする。休みが終わって月曜になれば、何もなかったように僕は仕事をしているのだ。

 僕は、自分を、自分の知らない自分を、結局信じているみたいだ。
 虚無を感じる時は、それが必要である自分の細胞を信じてしまう。自殺を思う時は、自殺を思う時間が自分に必要なのだと信じてしまう。
 思い込み、なんだけど。