創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

「頭痛が痛い」

 身体は、様々な性能を持つ器官、物質が寄せ集まって、成り立っている。それが現状であるとすれば、頭は頭として考える機能を発揮しているだけで、「おお、俺の頭はこう考えているのか」と、私を私と自覚させる何ものかが、それを見つめて、ああ自分は今こう考えているのか、と初めて知ることになる。
 何ということはない、頭が、ただ考えているだけなのに。

 同じ論理が、もし世間に通用するならば、「頭が痛い」は、正確ではない。痛みが、痛みとして「痛む能力」を発揮しているのであって、「頭痛が痛い」というのが、より正確に近い表現となる。もっと理屈をこねれば、誰の頭が痛いのか。別に、私はこの頭を選んで付けたわけでなく、およそ「私の」と言えるほどのものではない。「私に付けられた頭」である。この頭が痛がっているのであって、「私」は痛みを感じているだけ。
 しかもその「私」は、厳密に言えば、痛がってはいない。痛覚が、その能力を発揮しているだけである───

 だからといって、どうということもない。このような、わけのわからないことを言って、渡って行けるほど世間は甘くない。が、一考の価値はあると思う。れいによって、死にたいなぁとか、煮詰まってるなぁ、落ち目だなぁ、などと感じてる「私」らしき人間への、つまらぬ応援歌に終わる文になると思う。
 昨日、それこそ私は、死ぬかと思った。妻らしき人に、「駅前のタバコ屋で、頼んだ1カートン、置いてくれているから、私の死後、ちゃんと買いに行くように」などと口走っていた。

 今ここに、堂々と「私は」と言えたのは、身体の器官の、おそらく頭が、変調を来していたからである。その頭は、私の心・気持ちというものと同じ立派な器官の1つであるから、その頭にこの全身が持って行かれ、ああ、もうすぐ死ぬな、と観念していたのだった。

 事の起こりは、めまいであった。生まれて初めての、めまいだった。何やらパソコンに向かっていて、椅子を立ったら、ふらつき、廊下を歩いたら真っ直ぐ歩けず、しっかりしようとすればするほど身体は逆へ行く。横になっても、世界はぐるんぐるん回っているようで、なんとも気持ちが悪かった。ああ、自分の目が回っていると、世界も回るのか、などと考える余裕もなく、床にうつ伏していると、妻らしき人がびっくり仰天、布団を敷かれ、寝間着に着替えた。

 足が異様に冷たかったから、全身をめぐる血が足辺りでつっかえて、血のめぐりが悪くなったのも要因ではないかと彼女は言った。しかしこの身体、やはり正直である。いや、誰が誰に嘘をつくわけでもなく、だから何が正直なのかもよく分からぬが、ああもう死んでもいいな、などと頭は漠然と考えていた。すると、まるで身体が、そっちへ持って行かれた・・・・・・・ようなのだった。

「望めよ、さらば与えん」も「因果応報」も、ぜんぶ自作自演の一人芝居で、神も仏もへったくれも、ぜんぶ自分次第の世界ではないかと本気で思った。
 バファリンやら葛根湯やらを飲んで、この身体はひとりで眠り、めまいは収まったようだが、まだ怖い。いつ、突然、あの回転が始まるのか分からぬ。

 いつも、左のこめかみ辺り、左足のふくらはぎに鈍痛があると、それが身体の不調の前兆、前触れのサインであるようだ。今回もそうだった。しかし、どう対策をとったらいいのか分からない。「私」なるものは、いつもこの「私」と言われるところの、身体を前にして途方に暮れる。そしてこんな、つまらない文を書いている。

 ああ、応援歌だった… 誰に対する? まぁいいや…「持って行かれないように!」自分なんて無いのだから。あるのは観念だけだ、それをつくっている本元は。
 また、「持って行かれたっていい!」こいつは観念の上の観念だ… どっちにしても、吹けば飛ぶよなものだ、深刻に根ざすものではないよ、と…。