自殺に関しては、9歳の頃から現在に至るまでの約30年間、思い続けてきたフシがある。
なぜ自分が自殺を考えたか。
小学生の時、ぼくは「登校拒否児」であった。まわりの子ども達が当然のように学校へ通う中、ぼくだけが学校に行けなかった。明確な理由はない。身体が学校に向かなかったのだ。
親に迷惑をかけている。自分がいなければ、親に迷惑をかけることもない。
そうしてぼくは死にたくなっていた。
20歳を少し過ぎた頃は、親しく、自分のことをよく理解してくれている予備校の先生から紹介された河合塾のアルバイトを、「出社拒否」した時。
なんでこんな、自分にピッタリなはずの職場を、ぼくの足は向かなくなるのだ?
ここに勤められないならば、もう他に自分の生きていく道がないのではないか。はじめて自殺未遂をしたのも、この時であった。
結婚をして、子どもができても、ぼくは1つの会社へ勤め続けることができなかった。
自分は、父親失格だ。2度目の自殺未遂を本格的に取り組んだ時だった。
大学へ通う電車の中から、墓場が見えた。
みんな、死んだらここへ入る。そう思うと、なぜだかホッとしていた。
だからもともと、生きる力のようなものが、ぼくは希薄だったのかもしれない。
なんでこんな自分なんだろう? そのどうしようもなさから、ぼくは自殺をよく夢想していた。
だが、その自殺への憧憬が自分自身を救っていたのも事実なのである。
自分が、ひとりぽっちになれる世界。
そこへ行きたいと思うのは、自分がこの世にそぐわないと思ったからである。
小さな理由。
自分が、大多数の人たちと異なっている、という意識。
もう、自分のままでいこう。
そう思っても、「こんな自分」がまた顔を出す。矛盾。この堂々巡り。
こんな自分、の前に、「この自分」がいたことを忘れてしまう。
こいつを、だいじにすること。この自分を。
それが、本気で生きる、ということなのだろう。
(2006年)