(ばたばたしてすみません。また更新、始めます)
書くという私的な作業も、現場で働く公的な作業も、これに基づいている。
そこには、どのように生きているか、そのように生きてきたか、そんな「人生への態度」が自ずと明るみに出る。出てしまう。何を見てどう感じ、何を考え、どんな生き方をしてきたか、ということが。
「何を残すかじゃない。生きざまなのよ」── 友人の奥さんの言葉。
先日、銭湯でたまに会う80歳位の老人が、
「あなたのような若い人は、たくさん働いて、社会に貢献しなくちゃアカン」
ニヤニヤと言った。私は無職なのだ。
「社会が、もしワルいものだとしても、それに貢献しないといかんですか?」
私も、ニヤニヤ聞いた。
「うーん… アカン!」
老人が笑い、私も笑った。
この年代… 戦争、そこからの復興を体験した世代の人から、よく私はそう言われる。自分が生きること、働くことが、社会と同時進行する仕方で、形になって体感できていたような時代?
ふたりで湯船に揺られながら、話す。
「まあ、カネやな」老人が言う。「おカネが、やっぱり大事や」
「でも、欲ってキリがないじゃないですか。もっともっとってなります」
「せやなあ。でも欲を無くすことは難しい。欲があるから生きられる」
ことわっておくが、彼は細い眼を波のようにして話す。口調もか細く、しかし何か憂慮がない。どこかトボケた感じで、噺家、落語家のような軽妙さで話す。
「コロナウイルス、大変ですね」話題を変える。
「まあ、あんたのような若い人が先頭に立ってくれ。年寄りが、感染しないように、壁になって…」
「… 逆じゃないですか」
またふたりで笑う。
「わしらは、もう変えることができんのや。今までこうして生きてきた、っていうやり方でしか、生きられん。あんたらは、そうじゃない…」
「……」
「時間の早さも違う。ほんとうに早い。8時が、もう9時になって、もう10時になっとる。そうやないやろ?」
「うーん。遅いより、いいじゃないですか。まだ8時だ、まだ9時だより…」
「遅いよりいい… ああ、それは考えたことなかったなあ」
話し合っていると、自然長風呂になる。
「やあ、あったまった。ありがと。ごめんな」
微笑みながら、彼は出て行く。
「何をおっしゃる、ありがとうございます」
笑って見送る。
昨日は、知らない老人に話し掛けられた。「去年、脳梗塞で倒れたんですけどね…」
湯船には、いろんな人との出逢いがある。
── と、こんなことを書いてみる。
(2021年、8月)