創作と日常と

書いた「作品」らしきもの、また日常のこと、思うこと等々。

幸福

「わたし、ほんとうに幸せなのよ!」
 彼女がキラキラして言う、「幸せなのよ、幸せなのよ!」
「何が幸せなんだい?」彼が問うた。
「何も感じないことが幸せなのよ!」彼女が答えた。

 彼は、それまで毎晩、愛の奉仕に一生懸命であった。
 どうしたら彼女を歓ばせることができるだろう。自分の快楽などどうでもいい。彼女が喜悦を感じてくれれば、すなわちそれが彼自身の歓喜に繋がるからであった。
 だが、彼女は何も感じないことが幸せなのだと言う。

  彼は、自分が何もしなくても輝かしい笑みを讃える彼女に不満を感じた。
 ふてくされて、彼はベッドの上に仰向けになり、煙草に火をつけ、天井に向かってくじらのように煙を噴いた。

 今まで彼女に表わしてきた、愛の表現。幾分技巧的であったかもしれないが、彼女を愛する自分の気持ちの、表現であったことには変わらない。
 今まで自分の注いできた、彼女への情熱に、思わぬ冷水を浴びせられた気がした。

「何も感じないなら、どうして幸せだと感じるんだよ」低い声で彼は呟いた。
「何も感じないことが幸せなのよ!」彼女は狂気のように繰り返した。

 不意に、彼は涙ぐんだ。彼女が幸せであればいい。そう望んできたのに、彼女が幸せであるということが、今や憎らしくてたまらない。
(ひとりで幸せになりゃいいや。俺は一体何なんだよ。一体何だったんだよ…)
 悔しさ、いじけ、怒り、悲しさ、様々な感情が、一気に彼に押し寄せた。彼は複雑な顔をして彼女を見た。

(もう、別れちまおう。こいつはひとりで幸せになれるんだ)
 彼は荒々しくパジャマを着て、隣にある自分のベッドに潜り込んだ。
 ああ、ひとりのベッドは快適だ! 一緒に寝ていたら、彼女はもぞもぞ動いて、その度に目を覚まされた。朝まで熟睡なんか、できなかった。ああ、ひとりはいい、ひとりがいい…

 翌朝、ふたりは朝食のテーブルに向き合った。
「… 愛してるよ」
「わたしもよ!」
 爽やかな初夏の朝だった。ふたりは確かに幸せだった。