「早く死にたい」と口癖のように言っていた人が、そう言わなくなってしまった。異変である。彼は、死が遠かったから、死にたいと言えたのだ。それが、死が近くなって、わざわざ言う必要もなくなってしまった。
まわりの人は、「死にたいなんて言わんと」と笑って応じていたが、今やそんなふうな会話もできない。そう遠くない、来たるべき時のために、もの悲しい、せつない時間ばかりが流れるようになった。
むりもない。もう90を過ぎたのだ。いつ死んでもおかしくない。そのような領域に入れば、死は許容され、より身近かなものになる。「仕方ない」で済まされる。実際、仕方がないのだ。
これが、20歳の若者だったらどうだろう。「何も死ぬことはないだろう」と、老人とは全く違う扱いを受けることになる。そして彼が「死にたい」と口にしないようになれば、まわりはホッとする。
20歳も90歳も、同じ「死にたい」と言っただけで、どうしてこうも待遇が違うのだろうか。死にたい気持ちに、変わりはないのに。
「それはこういうことだよ」Kが言う。「平均、普通、というものの尺度なくして、人は物事を見ることができなくなってしまった。ゼロの点があったとしても、それが方眼紙の真ん中であるように、完全なゼロは人の心に描けない。何もない、基準を持たぬ心は、人間には持ち得ない。
そこから差別、優劣の目線ができあがる。何もないところから生まれた生命だのに、許せない死・許せる死ができあがる。長く生きた、もう死んでもいい。まだ若い、死ぬには早い。神でもないのに、そんな尺度で生命も扱われてしまうんだ」
「医者もそうかね? 子どもには、まだ未来があるから、熱心に施術するのかね。老人は、未来がないから、まぁ仕方ないと思いながら施術するのかね」
「僕が医者なら、そんな心もどこかに抱くかもしれない。手は緩めないけど、心がね」
「それは手抜きにならんのかね」
「気持ちはどこかガス抜きされている。それが手抜きだとすれば、手抜きだね」
「死んでも仕方がない、と思われる年齢にある人は、ほんとうに死んでも仕方ないと、まるでまっとうな理由があるかのようだね」
「まったく不思議な話だよ。もう十分生きた、まだ十分でないって、本人でなくまわりが決めちまうんだから。何様のつもりかね。この世の生命たち、たまったもんじゃないね」